引退後に気が付いた、ナカヤマフェスタの本質🐴👨🏻🦲🪷
- 7 時間前
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かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
ナカヤマフェスタとの再会
さて。
モニター体験はまだまだ続いたのだが、そろそろナカヤマフェスタの話に移りたい。
一昨年、引退後じつに13年ぶりに会った時に、フェスタの本質が「穏やか」であることを知った。
現役時代は本当に、頑なに、どうしようもないまでに、困った馬であった。
彼は競走馬の存在意義に直結する「調教」が何より大嫌いだったから。
その理由が「穏やか」に対するフェスタの「こだわり」だ、と気が付いたのだ。
調教や競走は彼にとって「穏やかさ」とは対極にある指図であり、受け入れ難かったに違いない。
「穏やか」にこだわる、かたくなな姿勢が「ブチ暴れる」という、対極の態度となって表れた稀有な馬といえよう。
現役時代はワガママな野郎だと私はプンスカしていたが、フェスタとしてはただ穏やかに過ごしたかっただけなのだ。
縁側でのんびりとお茶していたい、走りたくないウサイン・ボルト。
実際に調教以外は、さほど手を煩わせるタイプではなかった。
しかし現役競馬人としては、そんなフェスタを許容するわけにはいかない。
だって競走馬だし、仕事してもらわないと成り立たないから。
お茶をシバいている場合ではないと、フェスタをシバいていたのが私だ。
フェスタの本質に気が付き、申し訳ない気分になった一昨年の経験は、未だ鮮明に残っている。
ただ今回は、前回と違った。
ちょっとシンミリとした気分になってしまったのだ。
一目見て「ああ年を取ったなあ」と思ったからだろう。
2年前とさほど変化があるわけではないだろうに。
雰囲気だろうか。
現役時代、無理をさせてしまった反動が出ているのではないか、とどうしても感じてしまう。
そうであれば、心から申し訳ない。
20歳にしては随分、哀愁が漂っていた。
夕方の駄菓子屋のような、静かで、穏やかで、ちょっと寂しい感じ。
堪らなく「今」が愛おしい。
午前の外乗中にスタッフさんが「フェスタ長生きして欲しいなー」とボソッと言ったひと言が、重力を帯びて胸に甦った。
モニター体験では乗用馬の手入れ体験もあった。
同じ時間にフェスタも洗い場に繋がれていたので、(許可を得て)シレッと傍へ寄ってみる。
するとフェスタが甘えてくれた。
自分でビックリするほど、幸せホルモンが溢れ出る。
「もっと撫でてよ」とばかりに、鼻先を押し付け催促してくるフェスタが、たまらなく可愛い。
過去の不協和音が満ち満ちていた関係がウソだったかのように、多くのモニターさんの前でイチャイチャしてしまった。
過去のわだかまりも、今の申し訳なさも、こうも簡単に鼻先だけで全て浄化してしまうとは。
お釈迦様の教えの真髄が、馬の鼻先には詰まっているのではないだろうかと、本気で思う。
ありがとう、と思いつつ口からは余計な一言が出てしまう。
「現役時代は、こんなに可愛くなかったですよ。」
照れ隠しです、はい。

(つづく)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成
著作:Creem Pan

























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