生活において馬が最優先!愛されコジュウチョウサンの裏には並々ならぬ努力が…🐴👨🏻🦲🪷
- Loveuma.
- 4月30日
- 読了時間: 4分

かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
家庭も仕事も、馬も。
須田先生が別の牧場へ向うため立ち去った後、我妻さんの話を聞き始めた。
放牧地のポニーを眺めながら、ポツポツと口にする言葉は、こぼれ出る心情そのままなのだろう。
とにかくポニーが可愛くて仕方ないのだという。
仕事より、家庭よりも大事なんだ
と、活字にしてみると結構ドロドロの不倫ドラマのようなセリフも、草を食むポニーを前にすると不思議と受け入れられる。
ポニーを購入し、牧場への預託という形で飼っているが、自身も面倒を見ている。
自宅のある横浜から、千葉の富里まで週に3、4日は来ているそうだ。
厩舎作業を終えたら、あとは放牧地の前で1日を過ごせれば最高。
生活において馬が最優先。
周りの人には諦めてもらっている。
どうであろうか。
多くの感想は「それは確かに理想だわね」であろう。
そしてその直後には「けれども」と、否定的な文言が続くのではないだろうか。
馬を飼い始めた当時、我妻さんをよく知る須田調教師が
「金持ちのボンが変な道楽を始めた。どうせすぐに飽きるんだろう。」
みんなそう思っていたよ、と笑うのも理解できる。
わたしのように庶民ブーストが発動し「けれども」「どうせ」を、ことさらに強く念じた人もいるであろう。
だが彼は本気であった。
飽きないどころか、実はもう「10年以上も」そんな生活を続けている。
つまりは「変な道楽」ではなかったという事だ。
さらには世捨て人のように、馬以外を放棄したわけでもない。
家庭も仕事も、馬も。
どれも破綻させることはなく、すべてを成り立たせて10年以上も続けているのだ。
とんでもないポテンシャルではないか。
馬と過ごす時間を確保するために、事業をできる範囲に縮小した。
昼は馬のそばにいたい。仕事はパソコンでできるし、夜もできる。
結婚前からすでにその生活スタイルなので、家族の理解というかすべての前提として馬がある。
馬がいる生活がすでに贅沢なので、ほかの物欲は無い。

うーん。
変な道楽ではなかったにせよ、変人には違いない。
よく感じるのだが、たいていポテンシャルの高い人は、だいたい変人だ。
そして愛される変人であり、周りに理解者が集まるのも特徴だ。
「僕は自分のポニーが幸せだったら、それでいいんです。ほんとそれだけ。」
このセリフを言い切れるだけ、自分はやってきているという自信も感じる。
「いつかこいつらが死んで、僕も死んで。そしたら言葉が交わせる日が来ると思うんですよ。その瞬間が楽しみで仕方ないんです。」
いやはやカッコイイ変人である。
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自未得度先度他(じみとくどせんどた)とある。
道元禅師の言葉だ。
おのれ(自分)未だ渡らざる先に一切衆生(いっさいしゅじょう)を渡さんと発願(ほつがん)し、いとなむ(営む)なり。
渡る、というのは「さとり」を得て救われた境地へ達すること。
「自分が救われる前に、生きているあらゆるもの(衆生)を救おうという誓願(せいがん)を立て実践する。」
これが「菩提心(ぼだいしん)」なのだと道元禅師は示されている。
すごーくひらたく表現すれば、ほかの人(や生き物、あるいは物)の為に何かを実践していく、ということ。
自分のポニーを生活の中心に置くために、すべてを成り立たせるその努力は尋常ではないはずだ。
ただその大変さを語ることはしない。
自己犠牲的な精神は無く、あくまでもやりたいことをやっているだけ、というスタンスだ。
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自未得度先度他のいとなみには多様性がある。
これで正解というものもない。
対象を「馬」に限定したとしても、そうであろう。
個体としての馬一頭のみに向けるものだったり、維持継続を考え事業を含めた馬であったり、大きな命のサイクルの中の馬であったり。
今まで多くの馬事業を運営されている人に出会い、話を聞いてきた。
じつに様々だ。
お互いの思想が相反するケースも、じつはある。
ただ本気で取り組んでいる人は、つねに模索しつづけている。
そして自信を持っている。
現状に対しての満足めいた自信ではなく、関わってきた過程に対する確固たる自信だ。
共通して、みんな眩しくカッコいい。
(つづく)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成・近藤 将太
著作:Creem Pan
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