「ペット」とも「経済動物」とも言い切れない…改めて馬の在り方というものを思う🐴👨🏻🦲🪷
- 2025年12月31日
- 読了時間: 4分

かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
緊張の読経
全てのイベントは終了し、馬恩供養を残すのみとなった。
緊張で震える手で準備を進める。皆の視線が集まっているが分かる。
目の前に積まれた手紙に集中した。思っていた以上の手紙が集まった。わたしのこの試みを「素敵だ」と言ってくれた人が数多くいた。私に見える位置に「ありがとうございます」と書き記してくれた人もいる。
箱に納めきれないほど集まった手紙がある。その一つ一つに丁寧に書き記した想いが詰まっているのだ、と思うと胸が熱くなってきた。
わたしは今をもってなおかなり緊張するタイプであるが、ただ以前とちょっと違うのは、この緊張感に感謝することはできることだ。
こんな緊張は早く無くなって欲しいし、早く「さて今日は何を話しましょうかね」なんてニヤツキながら冒頭見回すくらいの余裕が欲しい。
でも指先が血の気を失って、細かく震えるくらい緊張する場は、貴重だ。こんな機会を、この年になってもなお、与えてもらえるのは、贅沢な人生だと思う。そのつど新鮮だし本当に感謝しかない。
挨拶を済ませ、供養を始めた。
お経を詠み始める。不思議なもので頭蓋に響く自分の声色によって、想いが純化していくのをはっきりと感じる。
初めて購入したマイクを使っているので設定が分からず、スピーカーから出てくる音はかなり無残な音割れが発生していたが、もうこれは仕方ない。
ここまでくれば、一切は集中の妨げにはならない。
目の前の手紙の関係に没入していく。封の中の便せんに記された、見えないはずの文字が色鮮やかな泡を纏い、浮き出して、私の前に現れる。
さあ、これを届けるのだ。
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修証一如とある。修(行)は証(さとり)を得るための手段ではなく、修行の中にさとりがあり、さとりは修行そのものなのだ。
たとえば目標への過程が修行で、その成功がさとりだとしよう。そこに失敗というものは無い。石につまずいて転べば、どう歩けばつまづかないか分かるようになる。転べば痛いが、その痛みが目覚めを与えてくれる。すでに成功の中にいるのだ。
過程に失敗は無く、そこには気づきと変化があるだけなのだ。修行し続けることが何よりも大切で、そこから離れてしまったら初めて失敗となる。
上岡馬頭観音マルシェもそうなのであろう。一年半前に、ほんの数人の協力者を得て始めたことであるが、毎回素敵な出会いがあった。
思うように人を集められず、申し訳ない気持ちと焦りが募ってしまうこともあったが、振り返ってみれば、なかなか良い転び方をしていると思う。
今回から境内を離れることになったのも、転んだどころでは済まされない交通事故なみの吹っ飛び方ではあったが、新たな理解者を得て、さらに馬恩供養が生まれた。
上々ではないか。
改めて馬の在り方というものを思う。たしかに馬はペットのような愛玩動物ではない。でも冒頭で述べたように一口に経済動物という範疇に収まるものでもない。多くの馬は「家畜として命をいただく」ことを前提としていないからだ。
だからこそ、名前がある。個々の馬は夢を託されて生きているのだ。
そこに向き合わず、死亡したときだけ経済動物扱いして「仕方ない」の一言で前を向いてしまっては、宙ぶらりんになってしまう気持ちが多すぎる。悲しみの中で迷ってしまう人もいるだろう。そんな人に少しでも寄り添えるように。
それこそが私の修であると強く思うし、正解を考え続けている間は証の中にいるのだろう、と思いたい。
―・-・-・-・-・――・-・-・-
供養を終え、法話を始めた。
供養自体はある程度定型のものがあるし、お経も完全に覚えているので、没入しやすい面がある。気持ちを落ち着かせることができる。
だけど法話はそうはいかない。毎回が初演であり、千秋楽なのだ。結局のところ、法話が一番緊張する。散々語ってきたが、やっぱりできれば転びたくはない、というのが本音でもある。
内容は既にカンのペキに覚えている。
それでも何度も繰り返し練習した。部屋で一人練習しても緊張感という意味で物足りないから、外を歩きながら人目を気にしつつ練習した。自宅で食後のくつろぎタイムに突然始めたこともある。
最初は某夫人もギョッと驚いていた。突然、中空に向かってお説教を始めるわたしを恐々と見ていた。が、途中から「ああそういうことね」と完全スルー。有難いはずの法話を聞く態度は微塵も無い。まる無視で動画を見ながらゲラゲラ笑う側で、練習を繰り返した。
とにかく、ずいぶんと練習したのだ。
おかげでどうにか無事に終了することができた。
今回の法話は、自分なりには最善を尽くしたと言えよう。内容も本当に自分が伝えたいことだったし、出来も納得のできるものだった。
某夫人に感想を聞いたら「よくわかんない」の一言で済まされたが、まあ及第点だということであろう。と思う。思いたい。

(了)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成
著作:Creem Pan


























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