人馬の関係をしっかり構築する上で、ラチが無いことが生む効果🐴👨🏻🦲🪷
- Loveuma.
- 14 分前
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かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
「自由」のためには、徹底的な基本が礎となる
では、感覚的に楽しいというだけではなく、騎乗者として身につくスキルの話をしよう。ラチというのは、知らないうちに頼ってしまうのだ。それは人馬共に。日本だと手綱をプラプラにするくらい、長く持って乗る「上手な人」がいるが、あれはラチがあればこそのスタイルだ。欧州に、あの調教スタイルで騎乗する人はいない。
あれは馬がラチを把握しているから、コーナーを勝手に曲がってくれる。コース内を走ってくれる。そこに乗じて、長手綱でハミを極力強く当てない乗り方になる。いわゆる「ハミを抜く」手法の一つになるのだけど、欧州でも競馬であればアリ。しかし、日常の調教であの騎乗はありえない。
次は馬の抑える技術の話だ。辛くなると左手を馬の首元において、右手を強く引っ張って抑えるスタイル(逆バージョンも)がある。決して褒められる技術ではないが、日本ではやっている人が多い。このテクも、馬が勝手に走ってくれる前提、の抑え方だ。馬にとっては不愉快極まりないし、(指示としては矛盾してるから)馬もラチを頼りに走らざるを得ない。ラチに激しく寄っていく馬を見ると、どこかのタイミングであの技術を駆使する人に乗られて、ラチに頼る癖が付いてしまったのだろうな、と思う。そして今後一度付いてしまったその癖が治ることも、ほぼ無い。
たとえばラチの無い草地の調教で、隊列の先頭で騎乗しているとしたら。当然、ハミの左右を均等に当てる乗り方をしなければ、絶対に真っすぐ走ってくれない。そんな珍妙な抑え方の選択をすること自体が、あり得ないのだ。
乗り方の基本として、手綱をやや短めに持ってしっかりとハミをかけるスタイルが身につく。そして馬もしっかりとハミを受けて屈トウする姿勢が身についている。
これは非常に大きいことだ。調教は縦一列で走らせるのだから、スタートはどうなるか想像して欲しい。
先頭はポンと出せるが、あとの馬は自分のスタートを待つことになる。坂路であれば坂下の平たんな場所で、常歩の輪乗りをしながら待ったりする。当然待っている間は気合満点だ。アクセルをベタ踏みで、エンジンがうなりを上げる中、半クラッチでうっすら繋ぎながら待っている感じ。オートマ限定の人ごめんなさい。とにかく恐ろしいくらいの迫力がみなぎってくる馬の上で、早く自分の順番がきてくれと願う。そんな待っている時間は怖いけれども、やっぱり楽しいのだ。馬がしっかりとハミを受けて、良い姿勢で待ってくれるから。多少暴れるけど、ハミに反抗してくることはあまりない。
ラチが無いというのは自由度が高いうえに、人馬の関係をしっかりと構築するにはこの上ない環境なのだ。
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自灯明(じとうみょう)とある。
「自由」と聞けば、何か束縛しているものからの解放というイメージが先行してしまうが、仏教では少し違ってくる。
あくまでも「自らに由(よ)る」、自らにもとずくことが自由なのだ。晩年のブッダは、弟子達に「自らをよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」と説いた。コレが自灯明。
自由とは外に向かって解放され「イヤッホイ」ということではなく、むしろ「自分の内側に根差している確固たる自分」に向かってどこまでも内証していく。究極に内向きの行為といえよう。
そして「自らに由る」ところがしっかりとすれば、まさに外に向かっても「イヤッホイ」となれるのだ。
例えば「フリースタイル」のダンスバトルというものがある。ジャンルにとらわれず、あらゆるステップを駆使して自分のスタイルを表現していくものだ。ステージ上ではそうなるが、そこに至るまで。当然あらゆるダンスの基本を網羅して、練習を繰り返し、得手不得手を把握して、自分らしさを模索していく。
全く踊ったことがない私が、フリースタイルのステージで踊ったらどうなるのか。見ている方が恥ずかしくなるような照れ具合でモジモジし、やけになって「コマネチ!」とかやるのが関の山だ。それが自分のフリースタイルなのか、と問われればもちろんそんなことはない。ただのごまかしだ。
ちょっと例えがおかしくなったが、俗っぽく言えば「自由」のためには、徹底的な基本が礎となるということだ。
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アイルランドで私が経験を積ませてもらった厩舎では、主にデビュー前の若馬にはなるが、だだっ広い草地で8の字を書くようにキャンターする調教があった。
と言っても、相当デカい8だ。乗馬の感覚の8の字とは規模が違う。結構速く走らせたし、800メートル近くとる感じで走らせていたのではないだろうか。ラインの交差する中心に調教師が立つことで、両手前の動きを確認できるし、全ての角度から馬を見ることができる。なるほど良い調教だなと思ったものだ。
それ以上深く考えることはなく、楽しいだけの調教だったのだが、ある日「今日はジローの馬で先頭行って」と言われた。そして先頭に出た瞬間、この調教の難しさを思い知る。
別に地面にラインが引いてあるわけではないので、私が走らせた道がコースになる。調教師の位置を把握しながら、大きな円を各難しさ。馬も先頭なので不安そうだ。私のちょっとした指示に敏感になっているのが分かる。「どっちに行く?ちゃんと分かりやすく指示してね!」的な切実な訴えが手綱を通して感じられる。
後ろの騎乗者が笑いながら円がデカいだの、今度は小さ過ぎるだの文句を言ってくるので動揺し、描くラインはブレブレであった。
冷や汗をかきながらもどうにか調教を終え、鎮静運動の常歩で調教師を中心に輪乗りをする。これも欧州スタイルだろう。調教師は周りを歩く馬の様子を確認しながら、騎乗者に質問をしていき、我々も今日の感触を報告していく。全員とのやり取りを終えた調教師が、最後にふたたび私の方を見て、ニヤリと笑いこう言った。
「ジロー。次回から先頭を走る時は地図を持つように」。
全員爆笑。これもお約束という基本を礎とする、欧州のギャグなのだろうか。

(了)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成
著作:Creem Pan
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