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エルコンドルパサーも実は聞いていた、お父さんへのお経🐴👨🏻‍🦲🪷


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かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。

「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。


菩提心とはランボーなり


今年、先生の同期の方が参列してくれた。私がお会いするのは10数年ぶりだろう。

その方が、牧夫であった私の法衣姿に、えらく感動してくれた。ついては私への語りかけが思わず敬語になってしまったのだ。「やめてくださいよ」と制しつつ、得意げな気持ちは抑えることができず、私の鼻の穴は孔雀の尾羽のように膨らんでしまった。



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仏教で初心とは発心のことであり、すなわち菩提心でもある。


道元禅師は「発心正しからざれば万行空しく施す」と、初心のあるべき姿を説いている。しかも、その初心を保つのがいかに難しいかを、次の言葉で表現している。


「一発菩提心を百千万発するなり」


初心忘るべからず、では到底弱すぎるのだ。初心である菩提心も打ち上げ花火のようなものであり、放っておくと消えてなくなっていく。

だから一発の菩提心を縦横無尽に常日頃、百千万回ぶちかますのだ。

それぐらいの心構えが必要だという話だ。

菩提心とはランボーなり。


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供養を終えた後、先生が仏壇を整理している際に、脇にあった小さな骨壺を手に取った。

ずっと前からその骨壺には気が付いていたが、誰のものは聞いたことがなかった。それくらいのデリカシーは持ち合わせている。

しかし先生が手に取る、という動作がキッカケでごく自然に「どなたのですか?」の質問が口から出た。

先生は少し驚いたような顔でこちらを振り向く。


「え?知らなかったの?エルコンドルパサーだよ。」


驚いた。


思い出の品を手に懐かしい日々を思い出すとか、ノスタルジックな感傷とは違う。

急に生々しい感触を以て、目の前にエルコンがいるかのような錯覚。

ガツンと来た。そうか。お前も聞いていたのか。普通にそう思った。


私がどんなに初心を失い調子に乗っても、お父さんは有難がってお経を聞いてくれているような気がする。私の大げさな抑揚も「上手になったねぇ」なんて感心してくれると思う。


けどエルコンに聞かれていた、というのは大きな喜びと同時に、見透かされている気恥ずかしさを感じた。

「君はまた調子に乗ってるね」

そんな語りかけが聞こえてくる。思えば私が馬の世界で完全に調子に乗ったのは、エルコンドルパサーに出会ってからだ。

エルコンが「凄い」と言われるたびに自分に伝播した。なんだか自分が偉そうな気分になっていた。自分は出合わせてもらっただけで、別に何も成し遂げていないのに。


お経もそうだ。お袈裟を着けて抑揚をつけて読むことで、感心され有難がられる。

お釈迦様の教え、つまりはお袈裟のおかげなのに、なんだか自分が偉そうな気分になっていた。

エルコンが戻ってきてくれたのだ。私が調子に乗らないよう、見守る存在として。


そっと仏壇の脇に骨壺を戻した。


エルコンドルパサーの小さな骨壺
エルコンドルパサーの小さな骨壺

(了)


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文:国分 二朗

編集:椎葉 権成

著作:Creem Pan

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