エルコンドルパサーも実は聞いていた、お父さんへのお経🐴👨🏻🦲🪷
- Loveuma.
- 13 分前
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かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
菩提心とはランボーなり
今年、先生の同期の方が参列してくれた。私がお会いするのは10数年ぶりだろう。
その方が、牧夫であった私の法衣姿に、えらく感動してくれた。ついては私への語りかけが思わず敬語になってしまったのだ。「やめてくださいよ」と制しつつ、得意げな気持ちは抑えることができず、私の鼻の穴は孔雀の尾羽のように膨らんでしまった。
―・-・-・
仏教で初心とは発心のことであり、すなわち菩提心でもある。
道元禅師は「発心正しからざれば万行空しく施す」と、初心のあるべき姿を説いている。しかも、その初心を保つのがいかに難しいかを、次の言葉で表現している。
「一発菩提心を百千万発するなり」
初心忘るべからず、では到底弱すぎるのだ。初心である菩提心も打ち上げ花火のようなものであり、放っておくと消えてなくなっていく。
だから一発の菩提心を縦横無尽に常日頃、百千万回ぶちかますのだ。
それぐらいの心構えが必要だという話だ。
菩提心とはランボーなり。
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供養を終えた後、先生が仏壇を整理している際に、脇にあった小さな骨壺を手に取った。
ずっと前からその骨壺には気が付いていたが、誰のものは聞いたことがなかった。それくらいのデリカシーは持ち合わせている。
しかし先生が手に取る、という動作がキッカケでごく自然に「どなたのですか?」の質問が口から出た。
先生は少し驚いたような顔でこちらを振り向く。
「え?知らなかったの?エルコンドルパサーだよ。」
驚いた。
思い出の品を手に懐かしい日々を思い出すとか、ノスタルジックな感傷とは違う。
急に生々しい感触を以て、目の前にエルコンがいるかのような錯覚。
ガツンと来た。そうか。お前も聞いていたのか。普通にそう思った。
私がどんなに初心を失い調子に乗っても、お父さんは有難がってお経を聞いてくれているような気がする。私の大げさな抑揚も「上手になったねぇ」なんて感心してくれると思う。
けどエルコンに聞かれていた、というのは大きな喜びと同時に、見透かされている気恥ずかしさを感じた。
「君はまた調子に乗ってるね」
そんな語りかけが聞こえてくる。思えば私が馬の世界で完全に調子に乗ったのは、エルコンドルパサーに出会ってからだ。
エルコンが「凄い」と言われるたびに自分に伝播した。なんだか自分が偉そうな気分になっていた。自分は出合わせてもらっただけで、別に何も成し遂げていないのに。
お経もそうだ。お袈裟を着けて抑揚をつけて読むことで、感心され有難がられる。
お釈迦様の教え、つまりはお袈裟のおかげなのに、なんだか自分が偉そうな気分になっていた。
エルコンが戻ってきてくれたのだ。私が調子に乗らないよう、見守る存在として。
そっと仏壇の脇に骨壺を戻した。

(了)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成
著作:Creem Pan
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