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法要にも影響が出るレベルで、今年は何だか花粉が辛いじろーさん…🐴👨🏻‍🦲🪷

  • 6 日前
  • 読了時間: 4分


かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。

「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。


花粉症と人生


花粉症である。

ここ数日は普通に生きていくだけも辛いレベルだ。


顔面の粘膜という粘膜が激しく花粉に侵食されている。

日々、安々と最終防衛ラインを突破され連戦連敗だ。

体内のあらゆる水分が鼻水と化し、激流となって途切れなく鼻腔からこぼれ落ちる。

眼球のかゆみは常軌を逸しており、一度指が触れたら最後、理性は吹き飛び、バグったNPCの如く目を掻き続けてしまう。





そしてここまで辛い理由はカンのペキに明らかなのだ。


ズバリ、薬を服用していないからだ。


「あほか」と思うかもしれない。

まあちょっと聞いて欲しい。


と薬を服用していたのに何故、今更止めたのか。

それは「あること」に気が付いたからだ。

あ、でも私はいわゆる陰謀論者ではないので安心して(?)続きを読んで欲しい。


理由だが、もう単純に「眠くなる」からだ。


ちょっと危険なレベルで意識が落ちる。

車の運転中、眠気を感じたので途中の駐車場で10分程度の仮眠を取ったら、その間気絶していたのではないかというレベルでの完落ち。

それでスッキリするというわけでもなく、一日に何度も仮眠をとる必要があり、その度にハシビロコウの如く石化し眠りに落ちてていた。


これではいけない。

そのうち法要中にウトウトしかねない。

というわけで薬の服用を止めたのだ。


そして、やはりというか当然のことではあるが、一気に症状が悪化した。

結局のところ、法要に支障はきたしてしまっている。


というかむしろ悪い。


読経の最中に鼻水をズルズル啜るのは非常によろしくない。

クシャミも我慢するので、読経中に変な「ふぇ」音が混じる。

そもそも夜も寝れない、だって目が痒すぎるから。


一体私は何と戦っているのか。


そこで何故こんな事態に陥ったのかを考えてみる。

じつは今飲んでいる薬はずいぶん昔のものだ。

花粉症の薬は1シーズン分もらうことが多いので、大抵余る。

なので毎年在庫は増えていき、そのまま放置していた。


片づけをしている時、過去の薬が大量に見つかったので、今年は医者にかからずそれを服用していたのだ。

コレが良くなかった。

馬の仕事をしている時に処方されていた薬だったらしい。

強烈に効く代わりに、眠気も強く出るものであった。


でも当時は問題なかった。

馬の仕事の最中に、眠気に負ける要素など全く無いからだ。

坊主がヒマだといっているわけではないが、運動量にしてみれば1/100にも満たないだろう。

おかげで眠気に抗うすべなく、惰眠をむさぼっている。


改めて私の生活は、根底から以前とは違うのだ、と実感する。


―・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。


鴨長明が『方丈記』の冒頭で語った、あまりにも有名なこの一節。

無常という真理を、たった一行で美しく紡いでいる。


川の水は絶えず流れ、つい先ほどの水はもうそこにはない。

けれど、川そのものは消えることなく前を流れている。


人生も同じであろう。


日々の出来事、喜び、悲しみ、出会い、別れ。

どれも留まることはない。


しかし、変わり続けるその流れの中で、

「いま、ここにいる私」という川の器は、確かに存在し続けている。


―・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


この一節は、執着であったり、出会うものへの感謝であったり、様々な法話へと結びつく根幹となる教えとなっている。


そう。元の水にあらず、なのだ。


というか、もう流れ以前に、河川そのものが違う人生を歩んでいる。


まさか花粉症に人生のノスタルジーを感じるとは。


ゆく鼻水の流れは絶えずして、しかも元の鼻水にあらず。

よどみに催すクシャミは、かつ出で、さらに出で、久しくとどまりたるためしなし。


そんなことを考えつつ、私は耳鼻科へ赴いた。

眠気の出ない薬を処方してもらうためだ。


まあ全体にどうでもいい話だったと思う。


あまりに花粉症が辛いので一筆残したくなった、というだけの話でもある。


花粉。フリー素材。見ているだけで目が痒くなってくる。
花粉。フリー素材。見ているだけで目が痒くなってくる。






文:国分 二朗

編集:椎葉 権成

著作:Creem Pan

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