法要にも影響が出るレベルで、今年は何だか花粉が辛いじろーさん…🐴👨🏻🦲🪷
- 6 日前
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かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
花粉症と人生
花粉症である。
ここ数日は普通に生きていくだけも辛いレベルだ。
顔面の粘膜という粘膜が激しく花粉に侵食されている。
日々、安々と最終防衛ラインを突破され連戦連敗だ。
体内のあらゆる水分が鼻水と化し、激流となって途切れなく鼻腔からこぼれ落ちる。
眼球のかゆみは常軌を逸しており、一度指が触れたら最後、理性は吹き飛び、バグったNPCの如く目を掻き続けてしまう。
そしてここまで辛い理由はカンのペキに明らかなのだ。
ズバリ、薬を服用していないからだ。
「あほか」と思うかもしれない。
まあちょっと聞いて欲しい。
と薬を服用していたのに何故、今更止めたのか。
それは「あること」に気が付いたからだ。
あ、でも私はいわゆる陰謀論者ではないので安心して(?)続きを読んで欲しい。
理由だが、もう単純に「眠くなる」からだ。
ちょっと危険なレベルで意識が落ちる。
車の運転中、眠気を感じたので途中の駐車場で10分程度の仮眠を取ったら、その間気絶していたのではないかというレベルでの完落ち。
それでスッキリするというわけでもなく、一日に何度も仮眠をとる必要があり、その度にハシビロコウの如く石化し眠りに落ちてていた。
これではいけない。
そのうち法要中にウトウトしかねない。
というわけで薬の服用を止めたのだ。
そして、やはりというか当然のことではあるが、一気に症状が悪化した。
結局のところ、法要に支障はきたしてしまっている。
というかむしろ悪い。
読経の最中に鼻水をズルズル啜るのは非常によろしくない。
クシャミも我慢するので、読経中に変な「ふぇ」音が混じる。
そもそも夜も寝れない、だって目が痒すぎるから。
一体私は何と戦っているのか。
そこで何故こんな事態に陥ったのかを考えてみる。
じつは今飲んでいる薬はずいぶん昔のものだ。
花粉症の薬は1シーズン分もらうことが多いので、大抵余る。
なので毎年在庫は増えていき、そのまま放置していた。
片づけをしている時、過去の薬が大量に見つかったので、今年は医者にかからずそれを服用していたのだ。
コレが良くなかった。
馬の仕事をしている時に処方されていた薬だったらしい。
強烈に効く代わりに、眠気も強く出るものであった。
でも当時は問題なかった。
馬の仕事の最中に、眠気に負ける要素など全く無いからだ。
坊主がヒマだといっているわけではないが、運動量にしてみれば1/100にも満たないだろう。
おかげで眠気に抗うすべなく、惰眠をむさぼっている。
改めて私の生活は、根底から以前とは違うのだ、と実感する。
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「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」。
鴨長明が『方丈記』の冒頭で語った、あまりにも有名なこの一節。
無常という真理を、たった一行で美しく紡いでいる。
川の水は絶えず流れ、つい先ほどの水はもうそこにはない。
けれど、川そのものは消えることなく前を流れている。
人生も同じであろう。
日々の出来事、喜び、悲しみ、出会い、別れ。
どれも留まることはない。
しかし、変わり続けるその流れの中で、
「いま、ここにいる私」という川の器は、確かに存在し続けている。
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この一節は、執着であったり、出会うものへの感謝であったり、様々な法話へと結びつく根幹となる教えとなっている。
そう。元の水にあらず、なのだ。
というか、もう流れ以前に、河川そのものが違う人生を歩んでいる。
まさか花粉症に人生のノスタルジーを感じるとは。
ゆく鼻水の流れは絶えずして、しかも元の鼻水にあらず。
よどみに催すクシャミは、かつ出で、さらに出で、久しくとどまりたるためしなし。
そんなことを考えつつ、私は耳鼻科へ赴いた。
眠気の出ない薬を処方してもらうためだ。
まあ全体にどうでもいい話だったと思う。
あまりに花粉症が辛いので一筆残したくなった、というだけの話でもある。

(了)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成
著作:Creem Pan


























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