壮絶な"馬の死"を目の当たりにした時、不意に出てくる「ごめんなさい」と「ありがとう」🐴👨🏻🦲🪷
- Loveuma.
- 15 分前
- 読了時間: 4分

かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
「ごめんなさい」と「ありがとう」
「馬の死」を目の当たりにする経験は、従事者でない限りほぼ無いとは思うが、かなり壮絶だ。
どんな理由であれ、四肢で立っていられないというのは、馬にとって死に直結する。
馬もそれを分かっているから、ギリギリまで立ち続ける。
倒れる時は必死に抗おうとする故、壁に長い脚や頭をぶつけてしまうから、残酷な音が馬房に響く。
それでも再び立とうとする。
目を見開き、破裂音のような呼吸を鼻腔から噴出し、自分が生きられるのかどうかを、自身に問いている。
そんな光景を目の当たりにすれば、どんなにやれることをやり切ったとしても、いたたまれなさ過ぎるのだ。
ゴメンナサイと思ってしまう。
後悔しか出てこない。
「ありがとう」と感謝の意を伝えられるのは、もっと後だ。
いよいよ、という段階になり、薬が打たれるときに「伝えておかなければ」と、やっとこぼれてくるものだ。
だから、ごめんなさいの光景は、何度だってフラッシュバックする。
一瞬で戻される。
鈴木さんの表情は、まさにそれだった。
かつての私のように「仕方ない」という呪文で感情のリセットを試みず、「死」と向き合いもがいていた。
そして苦悶の表情のまま、話の最後にドナテルロへの感謝の言葉が続いた。
そうなのだ。
しっかりと向き合い「ありがとう」を積み重ねることで、「ごめんなさい」を少しずつ浄化させていく他ないのだ。
わたしは深く息を吸ってドナテルロの遺影と向き合い、供養を始めた。


―・-・-・-・-・-・
懴悔(さんげ)とある。
平たく言えば悔い改めること。
そして仏教では「後悔」と「懴悔」を明確に区別している。
後悔は過去を悔やむこと。
つまり過去に囚われる煩悩として扱われる。
だから悪いことをすれば後悔ではなく、懺悔をしなさいと説かれている。
ただその懺悔の定義が、じつは凄まじい。
浄土宗善導大師の往生礼讃に、正式な懴悔とは「身の毛孔のなかより血流れ、眼のなかより血出づる」とある。
全身から血の汗を流し、血の涙を流して謝るのが懴悔。
さすれば罪は除滅(じょめつ)する。
全身から汗をかき、号泣する程度ではまるでヌルく、懴悔にはならないのだ。
え、そんなの無理じゃん。と思う。
さらに仏教では「人は生まれながらにして様々な悪業をなすもの」と自覚せよ、とある。
なのに、謝罪の方法がほぼホラーで、とうてい不可能であるならば
そもそも人生もう無理ゲーじゃん。と思う。
しかし本当に大切なのは、それを踏まえてどうするのか?ということだ。
ここから救いがあるのが仏教だ。
道元禅師はそれを「行持報恩(ぎょうじほうおん)」と説かれている。
自分は業をなすものだと自覚しながら、日々の生活の一つ一つを丁寧に行うことで、恩に報いていけ、と教えられている。
まったくもってその通りだと思う。
謝罪は常に足りない。
だから恩に報いていく。
それしかないのだ。
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供養が終わり、雑談が始まれば平常。
後悔は置いておいて、目の前の作業に集中する姿があった。
感謝をし、恩に報いる。
そんな光景が広がっている。
来てよかったと思った。
そんな話を某夫人と夕飯時に話していたら、なんと叱られた。
は?昼飯時にノーアポで行くとか馬鹿なの?
顔見知り?そんなこと聞いてるんじゃないの。
実際、他のお客さんもいたんでしょ?
あのさあ、自分が行けば、いつでも喜んでもらえるとか思ってるんじゃないの?
矢継ぎ早に、しかし考えてみれば、ごくまっとうなご指摘を賜り続ける。
正論に切り裂かれ、これでもかと心の恥部をタコ殴りされた。
危うく血の汗が出て、血の涙が流れそうになったが、やっぱり出ない。
やはり行持報恩の日々を続けていくしかないのだ。

(了)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成・近藤 将太
著作:Creem Pan
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