「競馬中の事故は100%防げると思っているんです」🐴👨🏻🦲🪷
- Loveuma.
- 3 日前
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かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
唐突で残酷な競走馬との死別
次の水曜日。
トレセン内の馬頭観音で供養をさせていただいた。
9時半なのにすでに30℃を楽に超えている。
厩舎スタッフは全員揃っていた。
仕事は早めに終わっていたので一度解散し、このために再度集合したという。
その日の競馬の準備があるスタッフの一人は、供養途中で退席する旨をわざわざ伝えてくれた。
このトレセンでの供養。
毎回、私はとても緊張する。
どうしてもホースマンであった頃の自分がいる。
後ろにずらりと並ぶスタッフの中に、私の背中をじっと見る私自身の視線を感じると言えばいいだろうか。
競走馬との死別は毎回唐突で残酷だ。
のんびりと余生を送っている馬の死であれば、深い悲しみがあるのは同様だとしても、「いつかその時がやってくる」という覚悟や、生に対する理解がある。
それが余韻というか緩衝材になってくれる。
一方で競走馬の場合は、ドンといきなり幕が落ちる。
理解や覚悟のバトンは後から追いかけてくるものだ。
そして大抵の場合、そのバトンが渡される前に次の馬がやってくるので、進みだしていかなければいけない。
私は自分の供養を、そのバトンを受ける儀式だと理解している。
以前の私のように、宙ぶらりんのまま次に向かわせてはいけないと思っている。
暑い日だった。
緊張もあり、読経中に汗が噴き出してくる。
それでも時折吹いてくる遠慮がちな風や、馬頭観音の裏手にある森から聞こえてくる鳥の鳴き声が涼を感じさせてくれる。
そのたびに何かが少しずつ、浄化していくような感覚を覚えながら供養を終えた。

供養後。
しばらく田中先生とお話をした。
やはり先日の電話と同じように、自問する言葉がまだ続く。
その中でこんな言葉があった。
「競馬中の事故は100%防げると思っているんです」。
耳にした時、正直驚いた。
99.9%とか、100%に近づけるという言葉はよく聞く。
ただし、ウラを返せば「防げない事故はある」ということだ。
実際私もそう思っている。
しかし、この一切妥協を許さない
「100%防げる」を元騎手で現調教師の田中先生が口にすれば、その言葉の厚みがまるで違ってくる。
絶対に兆候があるのだ、と。
どこかでそのサインを見落としているのだという。
今すべての言葉が自分に向かう槍となり、突き刺さっているはずだ。
表情に現れている。
それでも出てくる言葉は力強かった。
さらに、情報を全体で共有できなければ意味が無いんだ、と続いた。そうなのだ。
心の中で同意する。
ただ意地悪く言い換えれば、「そりゃそうなのだ」と思っていた。
つまりそんな簡単なことではない。
情報共有の為、スタッフがネガティブな報告を上げていくのは、これは結構負荷が強い。
例えば、ほんのちょっとした皮膚炎ができたとする。
2、3日で完治するだろう。
報告する=大げさではあるが自分のケア不足が明らかになる、ということだ。
調教に支障はないし、だったらちょっと黙っていようかな、となる。
こんなケースは嫌になるほど知っている。
それが習慣付いてしまうと、ある日の朝、バイ菌が入ってパンパンに腫れた脚を前に立ちすくむことになる。
それが大事なレースの前だったりするのだ。
いくら報告が大事だと口酸っぱく言ったところで、それは理想でしかない。
前提条件として、報告しやすい環境が整っていることが大事なのだ。
「簡単ではないですよね」。
思わず言ってしまった一言に、田中先生は答えた。
「だから風通しのいい厩舎の雰囲気作りに腐心している」のだと。

じつは田中きゅう舎が、その雰囲気を纏っていることは、なんとなく気が付いていた。
それはSNSの発信において、際立っている。
ひとことで言えば赤裸々なのだ。
要は、一見言わなくてもいいであろう、ネガティブな情報まで発信している。
田中先生は情報の共有において、スタッフ間に留まらず馬主さんも同様なのだと言っていた。
ひいてはファンの方にも。
これを徹底するというのは並大抵の話ではない。
(つづく)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成・近藤 将太
著作:Creem Pan
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