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思い出深いエピソードの数々…二ノ宮先生のお父さんの盆供養🐴👨🏻‍🦲🪷


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かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。

「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。


お父さんの盆供養とエルコンの話


「そうだ京都へ行こう」みたいな感じで僧侶になったのが私だ。こんなこと言うと「不敬である」と全国の僧侶から投げつけられた錫杖が空を埋め尽くしそうだが、「やかましい」と投げ返すくらいの気概を持って今は僧侶を努めている。馬の仕事をしていた時は、コレが天職だと疑わなかったが、今は僧侶に向いている自分に驚いている。つまりは、すぐに調子乗る気質で、脚元がフワフワしているのだから、ひょっとしたら将来は天狗かもしれない。



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そういえば修行中に年齢が半分くらいの古参(先輩)和尚に「テメー娑婆(一般社会)をなめてんじゃねえぞ、コラ」と叱られたことがあった。その時は「貴様は社会に出たことすらないだろうがっ!」と内心で獅子吼の咆哮をぶちかましつつ、同時に渾身の合掌低頭で見事な謝罪をしてやった。あのとき先輩(20代)は、真実を言い当てられたのかもしれない、と今になって思う。


「そうだ僧侶になろう」と思い立ったときの話だ。修行へ赴く直前、恩師である元JRA調教師二ノ宮先生のもとへ報告に向かった。そのときの「そういえば、うちも曹洞宗なんだよ」という先生の微笑みながらのひと言が、わたしにある思い付きを天啓の如くもたらした。それは「先生のお父さんの供養ができる」ということだ。その場で「(できるようになったら)お父さんにお経を読ませてください」と宣言していた。このとき生じた未来絵図が、修行生活を支えてくれたことは間違いない。


実はお父さんとは深い仲だったのだ。先生が自身専用の外厩であるドリームファーム(最初は木村牧場)を始めて、私が場長として着任したとき、はじめてお父さんを紹介された。


「ボケ防止にさ、使ってやって」


師匠の父親であるから、私にとっては雲上人である。その御仁を雑用で使えという。色々教えてやってという。そんなのチワワが獅子に吠え方を教えるようなものではないか。恐れ多すぎて、モジモジする私にお父さんはどこまでも気さくだった。以来、長い間牧場の仕事を手伝ってらもうことになる。内容は主に洗濯、掃除と電話番。ザ・雑用の王道になってしまうのだけれど、馬関連はからきしだったので必然とそうなってしまった。


お父さんは非常に綺麗好きだった。調教が終わって馬を馬房へ戻すときは、毎回フワフワに敷き藁が整えられていた。オガコの馬房であれば、ボロのかけらが一片たりとも無くなっている。まるで新品のオガコを敷き詰めたかのように綺麗な状態に戻っている。馬房の通路も隅々まで、ワラの一本すら落ちていない。調教に出る時は騒然とするので、毎回ある程度散らかってしまう。だけど調教を終え、戻る度にすべて片付いて綺麗になっている。


綺麗になり過ぎていて、もはやプレッシャーですらあった。私たちは私たちで、お父さんに余計な負担をかけないよう、汚さないように細心の注意を払って、馬を扱うようになった。もうこれはお父さんが隠居されたあとも染みついていた。


「厩舎が常にきれい」なのはドリームファームのお家芸ともいえる。ちょっとした汚れを全員が気にかけるようになり、無意識にホウキを握るクセが付いた。出入りの業者さんからも、こんなきれいにしているところは他にナイとよく言われていたが、それはお父さんの魂が息づいていた遺産だろう。


お父さんは競馬も大好きだった。


正確に言うと息子である二ノ宮厩舎の馬の活躍が大好きだった。厩舎の成績をデータ化する為に70歳を過ぎてからパソコン教室へ通い、エクセルを使いこなす。


やると思い経ったら徹底的にやるのが二ノ宮家の血筋なのかもしれない。お父さんのまとめるデータについて、先生は全然知らなかったらしい。息子とはいえプロに口出しをしない、という点はわきまえていたのだろう。


だがデータを集め、何かしらの傾向を掴めばそれを伝えたくなるのも性だ。その格好の相手が私となった。そしてそのデータが、失礼ながら実にいただけないものであった。


「興奮しやすい」という二ノ宮家の血筋そのままの勢いで、私に突き付けられたのは「(二ノ宮厩舎限定)騎手別の一番人気で【負けた】回数」。


ああ、お父さん、それやっちゃいけないやつ。


二人のトップジョッキーの数値が群を抜いている。そらそうなのだ、騎乗依頼数が多いんだから。


しかし興奮して口から泡を飛ばしながら、この二人の超一流ジョッキーをののしるお父さんをなだめる術はない。ハイハイと聞くしかない。


「一番人気で【勝った】回数をデータ化してもその二人が間違いなく突出しますよ」


なんて言えるわけもないのだ。最後には決まって、「その騎手を乗せないように進言するのが、場長の務めだろう」という、とんでもなく重い十字架を私に背負わせる話で終わっていた。


あとゲンを担ぐのも大好きだった。


毎年、酉の市で購入する熊手が少しずつ大きくなっていく。それはトレセンの厩舎事務所に飾られていたのだが、初めて訪れた人はまず熊手の話題に触れなければ不自然なほど、異様な存在感がある大きさだった。そういったことを大切にする人だった。


ある時期、ホントにたまたまであるのだが、私が競馬場へ応援に行くと連戦連勝の時があった。お父さんは「国分さんが行くと勝つ」と興奮している。これはさすがにエクセルでデータ化していなかったとは思うが、強烈に認識されていた。


そしてあるG1レース。結構な人気で負けてしまった翌日。露骨に元気のない感じで出勤してきたお父さんに、いきなり聞かれた。「国分さん、昨日競馬場行ったの?」。私は当番だったので「イヤ牧場で仕事してました。」と答えた。すると突然「行かなきゃダメだろうっ!」と大声が厩舎に響いた。周りの皆と一瞬きょとんとする。その場ではお父さん流の冗談と捉え、爆笑となったが、じつは結構本気で怒っていたことを、私は知っている。


だが、いよいよ高齢となりバイク通勤も大変になってきた。「今日、転んじゃった」とか恐ろしいことを言うようになったので、先生と話し合い退職してもらうことになる。


それからずっと何年もして、久しぶりに元気な姿を見たのは、ナカヤマフェスタの菊花賞の朝。遠く京都競馬場の関係者出入り口で会った。お久しぶりですとあいさつしたが、お父さんは既に興奮状態。杖をついていたが、誰よりも爆速で入場していく後姿を見て、なんだか安心したのを覚えている。(帰りは会っていないが、相当不機嫌だったに違いない。)


更に数年後、具合を悪くしてトレセン傍の病院に入院してきた。お見舞いに行ったが、もう私のことは覚えていなかった。間もなく常に寝ているようになり、言葉を交わすこともなかったが、ほぼ毎週通った。人が枯れていく様子をまざまざと見ている感じがあった。全く面影も感じられなくなったなあと思った頃に、亡くなった。


以上がお父さんとの思い出だ。実はエピソードは山ほどあるのだが、話が全然進まないので、失礼ながらごっそり削った。


今年の供養 先生の友人も参列してくれました
今年の供養 先生の友人も参列してくれました

(つづく)


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文:国分 二朗

編集:椎葉 権成

著作:Creem Pan

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