「所作が伴ってなくとも、心がこもっている方が大切」その考えに変化は無いが…🐴👨🏻🦲🪷
- Loveuma.

- 9月24日
- 読了時間: 3分

かつて育成牧場の場長を務め、現在は曹洞宗妙安寺の僧侶。
「ウマのお坊さん」こと国分二朗が、徒然なるままに馬にまつわる日々を綴ります。
形式を身体に叩き込んでいるからこそ、心を込められる
修行時代の話に戻ろう。お経の覚えが悪い、法要の何たるかを覚えない。その癖にやたら老けてて、態度が不遜。おまけに修行僧が、押し寿司の如く密着して就寝する僧堂において、地獄の釜を引っ搔くようなイビキをたてる私は、徹底的にいたぶられ続け、心底疲弊していた。
修行が始まって5か月後、お寺のお盆供養を手伝いに行くという名目で、初めて3日間の外出が許されることになる。
這うような気分で先生宅へ向かった。
先生は「ホントにお坊さんになったんだね」と眩しそうに微笑んだが、リビングに通されて私が語り始めたのは愚痴だ。
およそ僧侶が口にするべきではない、きわめて純度の高いキラキラな呪詛の言葉をまき散らし、先輩僧侶を罵倒し続けた。先生はずっと笑いながら聞いてくれた。やがてスッキリとし、文字通り気持ちを切り替えて仏壇へと向かう。
背筋を伸ばし、お父さんの位牌を前に正座をする。後ろでは先生夫妻がやはり姿勢を正して見守っている気配を感じた。吐く息とともに、先ほどの濁った澱を排出し、お父さんと向き合う。朝露の香りが漂うような、そんな澄み切った空気を纏い、私は読経を始めた。
・・・つもりであったが、内心は非常に焦っていた。ちゃんと覚えたお経は無い。そもそも一人で供養をしたことがなかった。どうやって始めるのかもよく分からない。そういえば、供養を始める文言すらも知らない。低頭をするタイミングっていつだっけ?とにかく所作を一切把握していなかった。後ろで優しく見守る先生の視線が重く、熱い。
そもそも自分ができないのは最初から分かっていた。それでもその時、お父さんにお経を読みたいのだという気持ちが圧倒的に勝っていた。その気持ちをお届けするのが大切なのだ。所作が整っていたところで、そこにしっかりと気持ちを込めなければ儀礼とはならない。その考えに今も変化は無いが、ただ技術が伴わなさすぎるのは、それはそれで問題があると、ごく当たり前のことに、その時やっと気が付いた。
形式を身体に叩き込んでいるからこそ、心を込める余韻が生まれ、雰囲気を纏えるのだ。
「では始めます」と言ってはみたものの、最初から全ての所作においてしどろもどろ。何の前置きも無く、なんとなくお経が始まり、そして読み終える。しばらくジッと黙った(困った)後、「では終わります」と唐突に法要を終えた。
一切のMCが無いという、超一流シンガーのライブのような法要となった。かいた汗の量だけが、いい仕事を終えた感じだった。
申し訳ない気持ち一杯で振り返ると、「ありがとうございます」と先生が深く頭を下げる姿が目に入る。とりあえず終わったことに安堵はしたが、達成感は微塵もなく、十方世界に詫びを入れた。
以来、毎年のお父さんの供養は、初心に帰る場でもある。
仏壇の前に坐るとありありと甦る。もやは水芸のように汗をかくことは無い。所作も覚えた。発声の抑揚も付けられるようになった。
ただ最近は僧侶ぶってる自分を感じるようになっている。ストレートだけで勝負していたのに小手先の変化球を覚え、こねくり回して悦に入っているのだ。

(つづく)
文:国分 二朗
編集:椎葉 権成
著作:Creem Pan


























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